親不知を抜いた話

 人生には不要なものがある。

 一にそれは残業である。

 二にそれは労働である。

 三にそれは……親不知である。

 どうでもいいけど、親知らずじゃなくて、親不知って書くとそれだけで不知火が父親から目を移植したエピソードを思い出すね。

 時は半年以上も遡る春。コロナ禍真っ最中、世間が最も自粛をしていた時期。私も多分に漏れず、自粛を徹底していたが、部屋に籠りきりでは流石に運動不足極まりなく、毎日在宅仕事が終わった後、30分ランニングをすることを心掛けていた。

 と言ってもこれは別にこれを機に始めた習慣というわけではない。週末、仕事が休みで自宅にいる時は夕方必ずランニングに行くようにはしていたのだ。ただ、夕方に家にいることが増えたというだけの話。

 今日も今日とて元気にランニングをしていた。

 うーん、身体が揺れると奥の方の歯が痛むな……。

 でもなぁ、今歯医者とか絶対行きたくないなぁ……。

 まぁええか……。

 これが半年前のことである。

 そして幸いにも痛みを感じてから半年も放置していたことを怒らない優しい先生に巡り合えたことで、私の歯医者通い生活が始まってしまったのだ。

 時は進んで先日、親不知を抜こうと歯医者に来た。

 歯医者の立地は職場から徒歩5分、家から徒歩15分と仕事帰りに寄るにはもってこいの場所にある。

 本日も元気に労働してから歯を抜くというまぁ字面だけで最悪の一日だよね、まったくたまんねぇぜ。

「予約のなびるなです」

 受付に診察券を出すと待合室で待たされる。ただただ怖い。

「なびるなさん、どうぞ」

 呼ばれた。私はゴクリと喉を鳴らし、診察室へと進んだ。

「今日は残りの左の上下二本を抜いていきます」

 残りの左の上下二本。

 そう!

 実は私、不幸なことに親不知が右上下、左上下の全てコンプリートしていたのである。

~回想~

「まず、なびるなさんの場合、親不知が四本とも生えてしまっています。その内、痛いと仰っていた右の上の親不知、こちらは虫歯になってます。絶対抜いた方がいいです」

 気軽に言いやがって。

「次に左の上、こちらも虫歯になっています。これも抜いた方がいいです」

 まったく気軽に言いやがって。

「左の下、これCT写真をみていただければわかるように……横向きに生えています。こちらも抜いた方がいいでしょうね」

 おいおい、まてまてそれじゃ歯がなくなって……。

「右の下、は今のところ大丈夫そうですが、この際、抜いてしまった方がいいでしょうね」

 おいっ!理由がねえぞ!特に最後!適当に抜かせようとするんじゃねえばぁかばぁあか!

~回想終わり~

「今日は下の歯が横向きなので大変かと思いますが、頑張りましょう。それでは麻酔をしていきます」

 そうやって言われるがままに麻酔を打たれる。

 まぁね、ボクもね、もう親不知抜くのは二回目なわけですよ、もう親不知ヴァージンは捨てたんで、いつまでもウブな振りも出来ねえってもんですよ、覚悟決めるぜ!

「じゃあ、CT撮ります」

 CTルームに入ってボクは驚愕した。

 なんと、CTが新しくなっていたのである。

 え、これ買い替えたんかな、最新のやつなんかな、えーすごい気になるー。でもボクは生来のコミュ障故にそんなことを聞けるわけもない。

 ボクはすごすごと席に戻され、

「それじゃ、治療していきますね」

 ちょっと待ってまだ覚悟が決まってない、これが決められた自分のストーリー、助けてヒストリー。

 ウィーン!!!!

 この歯を削るやつ!音がね、音が怖い、怖いんだが、なんか途中で焦げた匂いがするじゃん、やめてくれよ、怖い怖い助けて、

「え、何、やばいことになってるの?行った方がいい?え、わかりました。はい、なびるなさん楽にしてください」

 は?なんだ?

 絶対まだ、歯、抜けてないじゃん、なにこれ、どういうことだよ、やめてくれよ先生。

 突如として、左下の親不知が半分削られた状態で取り残されたなびるなとスタッフで黒髪のお姉さん。

 察するに、隣に急患が来て、ボクは後回しにされてしまったようだ。

 こんな宙ぶらりんの状態で。

 え、マジかよ、ありえないだろ。

 というか、なんだよ、この状況。

 なびるなは生来のコミュ障故に、このお姉さんと二人きりの状況が既に居心地が悪いというか、これ恐らく結構待たされるヤツじゃん、無言でずっといるなんて無理だぞ、おい、これはさっさと口聞いといた方がマシだ。

 意を決してボクは口を開いた。

「あの、この写真ってどの角度から撮られた歯ですか?」

 ボクは目の前のモニタに移る多分、自分の歯について聞いてみた。

「これですか。これは歯を真上から撮った写真ですね。今、この歯をぶった切ってる最中です」

「なんと恐ろしい写真ですね……」

 すると、何故か、受付にいた茶髪のお姉さんもボクの席にやって来た。

 ボクが内心、勝手にギャルっぽいなと思っていたお姉さんである。閉店まであと1時間、もうこれ以上、客が来ることはないから暇になったのだろう。

 モニタ上をなにやら弄り出した。

「こうして……おお!動いた!」

 見せてくれたのはさっきに、CTスキャンで、って、え!すご!3Dじゃん!

「え、すごっ!初めて見た、すげぇ」

 今の発言はボクの発言ではない。茶髪のお姉さんの発言である。

 って、お前も初めてなのかよ。

「CTスキャン、新しくなってましたね。まだ入れたばっかなんですか」

「そうなんですよ、最近、入れたばっかで、私も触るの初めてでぇ」

 黒髪のお姉さんまで驚いているところをみるに、本当に、つい最近、入ったばかりの最新設備だったらしい。

 そうか、3DCTスキャンだったのか、すげぇなこれ、でもなんか

「結構グロいですね」

 波長の違いで歯と歯茎を色分けしてくれているらしく、まぁ、リアルで。

 そこから口々に親不知トークが始まった。

黒「私、夏に1本抜いてぇ、年明けにもう1本抜くんです」

茶「え、抜いたの?知らんかった、教えてよ。私はつい先週1本抜いて、現在絶賛ロキソニン頼りです」

な「ロキソニンすごいですよねぇ、飲んだらすぐ効くじゃないですか。もロキソニンなしだと痛みで夜中起きちゃって」

茶「ですよねぇ、お客さんってどれくらい痛み続きました?10日くらい、え、やば」

な「ボクはこの前、右の上下で二本抜いたんですけど、すげぇ痛くて。しかも、なんか、上の歯抜いたら鼻と繋がってしまって空気が抜けるんですよ」

黒「え?どういうことですか」

 ん?ちょっと待て、おかしいな黒髪。お前、ここで働いてるのにそんなことも知らないのか、いや、でもそんなわけないだろ。いやまさかな。

茶「鼻と歯のところの骨って薄いから、歯を抜いたときに鼻の中と口が繋がっちゃうことがあるんですよ、学校で習ったことはあるんですけど」

 けど……。

茶「実際になった人は初めて見ました」

 ええええええええええええええええええええ。

 マジかよ、そんなレアだったのかよ、普通にいるくらいだろ思ってたわ。先生、結構軽い感じで言ってたじゃん、そんなレアなんて言ってなかったじゃん。

~回想~

 先生、悪戦苦闘の末、右の上下の歯を抜く。

「はい、ではうがいしてください」

 ボク、うがいする。なんかむせたのか、鼻水が出てきたので鼻をかむ。

「今、鼻をかみましたが、水が逆流する感じありましたか」

「いえ、そんなことは……」

「実は、今抜いた上の歯が非常に大きくて、そういう場合、稀に鼻と口の中が繋がることがあるんですよ」

 んなわけあるか!というかこの時点では口の中が血まみれでそれどころじゃないし、もう全然分かんない!なびちゃんわかんないもん!ぷんぷん!

 翌朝。激痛と発熱に悶えながらも夜を越したあと、おそるおおる右の頬に空気を貯めてみた。

 シュー。

 萎んだ???

 いや、まさかな。

 シュー。

 萎んどるわ、左頬に空気貯めてもこんな風にならへんもん、これは空気抜けとりますわ。

「先生、すいません。昨日、抜けてないって言ったんですけど、昨日試してみたらやっぱり抜けてましたわ」

「じゃあ縫いますねー麻酔しまーす」

~回想終わり~

「ってな感じで二日連続で麻酔されて」

「え、やば」

 このへんでもしかして、とボクは思い始めた。

 もしかして、ボクの親不知抜き経験はあまりスタンダードな経験ではないのでは?

 だって、まず、みんな親不知四本生えてないもん……。黒髪のお姉さん二本だっていうし、茶髪のお姉さんは3本だっていうし。

 そんなこんなで和気あいあいと会話していたら先生が戻ってきた。

「じゃあ続きやっていきますね」

 あー怖い怖い。こっからメスが入れられて歯茎がズタズタになってうひーやめてくれ……ああ……。

「はい、終わりました」

 え?先生、縫ってないですよね?歯、縫ってないですよね?

「下の歯は横向きに生えてたんで切らないといけないかと思ったんですが、切らずに行けました。上の歯はすぐ、抜けました」

 え?終わり。

「抜糸もないのでまた明日消毒に来てくださいね」

 なんとあっけない幕切れだろう。

 翌朝、起きる。よく寝た。というか全然、歯、痛くなかったんですが……。

 前回、三日三晩激痛に悶え、10日間ロキソニンなしでは寝ることも出来なかったのが嘘のようだ。

 ボクは猛烈に恥ずかしくなってきた。

 親不知を抜いたのが、あまりにも痛かったものだから、抜いた後が余りにも辛かったものだから、会う人会う人に親不知を抜いた話をしまくっていた。

 でもやっぱりここで気付くべきだったんだと思う。

 だれも四本なんて抜いてないし、上下いっぺんに抜いてないし、空気が抜けていなかった。

 きっと彼らは親不知を抜いたことをまるで武勇伝のように話す、ボクのことを見て、「たかが親不知如きでこんなにも騒ぎやがって」と思ってたに違いない。とんだ笑いもんじゃねえか。

 ボクは悲しい気持ちになりながら歯医者に消毒へ行った。

「はい、これでおしまいです。お疲れさまでした」

 先生に見捨てられ、ボクは待合室に戻る。受付にいたのはあの茶髪のお姉さんだ。

「昨日はどうでしたか」

「それが、拍子抜けするほど大したことなくて……」

「それは良かったですね」

 ボクは今日の診察料を払い、薬を受け取る。

「その服、」

 ボクは今日はチキンラーメンの真っ黄色のパーカーを着ていた。

「さっき見たとき、やばい服着てるなって思ったんですけどめちゃかわいいですね」

「お気に入りです」

「え、やば」

 そんなお姉さんのおよそ客商売とは思えない砕けた言葉を聞きながら、チキンラーメンのひよこちゃんは寒空の下へと消えたのである。

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