
意気、揚々と
「先生は学生の頃、手を挙げるタイプの生徒だった?」
新鳩翠は半袖から伸びる白い腕でノートを覆い隠す。
まるでもうやらないぞと誇示するかのように身体を投げ出すと、脈絡もなく問いかけた。
彼女が、勉強机に向かって落ち着いてから十五分も経っていない。
やれやれ、これじゃ先が思いやられるな、と皆切悠介は頭を掻いた。
もっとも、この少女の成績が上がろうと下がろうと皆切にとっては知ったことではない。今の身分としては変な話ではあるが。
「俺は、あんまり手を挙げなかったな。挙げるようには見えないだろ?」
サボるつもりならちょっとくらい乗ってやるかと、返事を投げた。学生という言葉は大学生にしか使わないんだなどという野暮な指摘をすることもない。
「見えないね、まったく」
翠はくすくすと笑う。
「それはそれで失礼なもんだ」
先生、と呼ばれることは仕事柄、ごく稀にある。資格も何も必要のない、名乗ればなれる探偵という職業を弁護士か何かと同一視するのか、あるいは本心からの畏怖と憧憬からなのか、皆切を先生呼ばわりする依頼主はゼロではない。
しかし、今日の先生呼びはそういった類のものではなく、一般的な学問を教える者としての先生だ。
資格も何もいらないという点では一緒ではある。皆切は家庭教師で、翠はその生徒だった。
新鳩宅は街の外れにある一軒家で、今いるほんのりとパステルカラーで彩られた二階の一室が翠の部屋だ。二階の他の部屋は物置になっている。新鳩家は娘一人で兄弟姉妹はいない為、持て余している。
そんなところでなぜ、皆切が家庭教師なんぞをやっているかというと、翠の通う私立中学では三年生の一学期までの成績を重視して内部進学の有無が決まる。早い段階で進学先を確定させ、安心させたところで外部に進学するものは追わない、というスタイルのようだ。
彼女の父親からなんとしてでも内部進学が適うようにと、夏休み前の期末試験に慌てて家庭教師になってくれと乞われ、週に二回のペースでこの家に通う羽目になった、というわけだ。
その学校はこの地域ではそこそこ名の知れたお嬢様学校だったが、それも今は昔。生徒数の低下に伴い、お決まりの共学化が十年ほど前に実施され、今や男女入り乱れる学校と化し、偏差値の方も年々下がっているそうだが、それでも地域の住民にとっては未だに重要なブランドで中高と一貫して進学するのが淑女の倣い。
翠の成績は父親が悲観する程、悪いものではない。学年上位とはいかないまでも内部進学程度であれば悠々ともらえる立ち位置にいる。
いや、むしろこの怠け癖さえ、なんとかなればもっと上位を目指せるポテンシャルも秘めていると皆切は感じている。
そんな彼女に家庭教師を付けるというのは、もしかしたら進学の岐路にかこつけて、取り返しの付く内に勉強癖を付けさせることが目的なのかもしれない。
……なんて。
もちろん、そんなわけはない。
「しかし先生、そんな頃から気取ってるんだね」
なるほど、そう解釈するのか、と皆切は感心した。
前提として問いは、授業中に教壇の上から求められたとき、積極的に手を挙げる生徒であったか否か、ということだろう。
この国の例に漏れず、疑問が湧いた際に手を挙げて教師に問いかける生徒なんて天然記念物レベルのものを皆切に求めているわけではないはずだ。
そして、それを気取っていると評価するには、教師の求める答えが分かっているにもかかわらず、手は挙げないものだという彼女自身の認識があるからに他ならない。 まず、答えが分からないものに対して手は挙げない。
しかし、皆切が手を挙げない生徒だと自分を評したとき、彼女は皆切を教師の質問に答えられない莫迦だとは思わなかった。そこに考えが及ばなかった。
なぜなら、それが自分と同様、頭の良い人間にとって、わかるというのは当たり前のことだという認識があるからだ。そして、自分に勉強を教える目の前の人間の知力が劣るなどという発想はないのだろう。
「気取ってるかどうかはわからないけど、真面目な生徒とは言い難かったな」
「そう」
もはや、シャープペンシルを握っているのはポーズだけ、勉強を続ける気が一切、見られない。このような態度でもある程度の成績を維持できており、他人を見下す余裕があるのは、彼女の地頭の良さの証左であろう。
「学校でね、学級委員をやってる真面目な子がいて、名前はえみりっていうんだけど」
翠は自分とは正反対のその少女の名、「愛美莉」とノートに綴った。皆切はその字面になんとなく欧風な印象を抱いた。
「その子はどんな質問にも必ず手を挙げる子なの。ううん、もちろんわかんないことでも手を挙げるってことじゃなくて、全部がわかっている上で手を挙げるの。
まるで左手を天に突き刺すようにピンと背筋を張ってね」
その言い方にどこか含みを感じる。それは翠がすべての質問がわかっていないこともある上で格好付けて手を挙げないのに対し、すべてわかっていて、かつ、それが周りへ表明されている愛美莉という人物へのコンプレックスが為す業だろうか。
学級委員までやっている上でそうだとすれば、内申点は非常に高いはずだ。そんな生徒ばかりならば授業もさもやりやすいだろう、と目の前の少女を見ながら皆切は思う。
「だけど、最近、急に手を挙げなくなったの」
「急に手を?」
「そうなの、もうまったく挙げなくなって。私、愛美莉の二つ後ろの席だから、手を挙げるのを見逃すはずはないんだけど」
翠が言うには愛美莉なる人物は普段から品行方正で、典型的な模範生徒であったらしい。かといって、他の生徒から(表立って)妬まれるようなこともなく、誰の目から見ても問題という問題がなかった。
無論、学業の方も優秀で、成績は学年トップ、生徒からも教師からも好かれる存在。
「最近ってことは今日一日の話ではないんだな?」
「うん、今週に入ってからかな。もしかして先週末から挙げてないかもしれないけど、愛美莉が手を挙げてないことに気付いて、意識してみるようになったのが今週になってからだから。
いや、でも少なくとも先週の金曜日に当てられて答えてるのは覚えてるから、やっぱりまったく挙げなくなったのは今週に入ってからかな」
皆切がこの家に教えに来るのは水曜日と金曜日の夕方。その内の水曜日なのでもう三日になる。
「それの一体、何が気になるんだ?」
すっかり授業を進める気はなくなり、彼女の話に付き合うことにした。
「気になる、というより違和感かな。こんなことが起こるんだな、って。
今週の月曜に授業が中断しちゃってさ、先生の質問に誰も手を挙げてなくて。こんなの今までなかったから、驚いちゃったってわけ。私、愛美莉とは一年の頃からずっと一緒だからずっとそんな経験してなかったの。
そりゃもちろん、愛美莉が休んだ時はそういうリスクもあったんだと思うけど、そのときは偶然かな、今まで中断したことはなかった。
で、初めて今日、愛美莉が手を挙げてないんだって気付いてね。社会の授業だったから二時間目かな」
翠は左を向いて窓のすぐ横の壁に貼ってあるプリントを確認した。壁紙には何度も貼り直したであろう画鋲の小さな穴がポツポツと開いていた。
「手を挙げなくなってから何か変わった様子は?」
「さぁ、どうだろう。こんな話をしてるけど、実は私、グループがちがうからあんまり直接話したりしないんだよね。仲が悪いってことはないんだけど。
でも、遠巻きに見てる限りはおかしなところはなかったよ。体調不良で休んだり、保健室行ったりもしてなかったし、ふらふらしてる様子なら、席からでもわかるし」
その返答は予期していた。体調不良だから手を挙げませんでした、では翠もこんな話題を振ってはこないだろう。
「じゃあ、心境の変化か?」
例えば、翠ではないが内申点に興味がなくなった、いや、それはないかと考え直す。
流石に時期がおかしい。内部進学という時期を考えるのであれば、少なくともあと一ヶ月は待つべきだ。今更やめるのはおかしい。別にいいや、と考えるにしても進学を確定した夏休み以後になるはずだ。
逆にここまで、優等生を通していたのなら、この時期にわざと内申点を悪くしようと試みてもそこまで急降下することはないだろう。
それこそわざと内部進学しないようにするのであれば、もっと極端に不良少女にならないといけない。
どっちに転んだとしても、まともな考えであれば、最低限、夏休みに入るまでは優等生のままである方が自然である。
「あ、でも」
と考えている内に翠が口を挟む。
「そういえば、制服のシャツが、」
そのとき、下の階で物音がした。そして微かに聞こえたただいまの声。
「お母さんが帰ってきた。ちょうどいいや、私、喉乾いたから、飲み物もらってくる。皆切先生はいつもの冷コでいい?」
返事しようとするよりも先に、翠は部屋を飛び出し、階段を駆け下りていった。
「……シャツ?」
皆切は彼女が最後に言い残した言葉の意味を考えながら、勉強机と反対の壁側にあるクローゼットの観音扉を開いた。
そこには夏用に白い襟付きシャツが数枚とスカートが吊るされていた。そして、隅に追いやられるように長袖のシャツ、そして、冬服は引き出しの中に仕舞われていることを皆切は知っている。
この部屋の全容は既に把握済みだ。制服の在処はもちろんのこと、翠の年齢には分不相応な、ちょっと大人ぶった恥ずかしい下着の隠し場所まですべて知っている。
それは決して彼の趣味ではなく、探偵として必要があって調べたものだ。実をいうとこの部屋の重要度というのはそれほど高いわけではなかったのだが、立場上、この部屋の中を探るのが、もっとも容易だった為、暇なときに調べたというのが正しい。翠が今のように不用心に部屋を明け渡すことは珍しくなかった。
不用心、といえば、翠の母親、新鳩芙蓉もそうだった。
家庭教師、夫の知人だという触れ込みとはいえ他人である男性を娘と二人きりにして平気で出かけるという神経には正気を疑う。期間の問題ではないとはいえ、皆切が家庭教師(のふり)をし始めてから、まだひとつきと経っていない。この僅かな間にそこまでの信用を勝ち取ったとは流石の皆切も思っていない。むしろ必要であれば、言葉巧みに言いくるめて、自分の行動に有利な環境を創出する必要があると思っていたのに、この家に来た初めからこの調子なので拍子抜けなくらいだ。
しかも、外出する理由も何か差し迫ったものではなく、スーパーへ買い物に行く、程度のものが大半だ。それくらいはあと回しにしてもよいと思うのに、決まって皆切がいる時間に出掛けてしまうのだから困ったものである。
こっちとしては仕事がしやすいので何も口出しはしないが、とはいえ、この部屋のすべてをひっくり返しているわけだから、そういう輩よりも皆切の方が性質が悪いかもしれない。
そして、なんのかんの言ったが、皆切の今回の標的は翠ではなく、芙蓉である。
夫の知人というのも真っ赤な嘘、依頼主が夫である。
依頼内容は妻、芙蓉のことを調査してほしいというもの。事務所のソファに深々と腰掛けながら聞いていた時は、ああ、またいつもの浮気調査か、面倒だ、万田に押し付けるか、あるいは難癖付けて断ってやろうかと考えていた皆切だったが、依頼主の表情は暗く、重々しい。
浮気だって本人にとってはこの世の終わりのような事態であるので、もちろん、深刻なのではあるが、その表情にはそれ以上の昏さを感じ、皆切も興味が湧いた。
曰く、浮気以上の何かに妻が巻き込まれているような気がする、と。
所詮、男の勘など当てにならないものだと一蹴できないほどの深刻さがあり、かえって浮気程度で済むのならそっちの方が安心だという。
彼が不審に思うようになったのにはきっかけがある。それは最近の支出の少なさだ。口座からの引き落とし額が減っていて、今までの七割くらいだという。なのに、生活の質が落ちたように見えないし、目立つような節約をしている様子もない。逆に豪遊している様子は今も昔も特にはないが、財布の中には十分な札がいつでも詰まっていて困窮していない。もちろん、口座には不自然な入金はない。
自分なりに素人探偵ながら、こっそり休みを取って彼女の後を尾けたり、家の中を探し回ったり、彼女が寝静まった後、スマホを覗いてみたりと試してはみたけれど、何も分からなかった、と依頼主は告白した。
依頼主の勘違いだというには、どうにも支出の件がひっかかる。
そして、家族が不在のタイミングで家に招き入れ、家全体を調査するとともに、娘の家庭教師として雇う振りをするので潜入してほしい、これが依頼の全容だ。芙蓉は主婦なので、やるなら家の内部に入り込まないと調査は難しいというのはごもっともだ。
もし、見えないところで芙蓉が節約しているとしたら、それで浮いた程度の額は探偵を雇うことで簡単に吹き飛んでしまうが、そのリスクを取ってでも依頼主は不安を払拭したいらしい。
潜入となれば演技も必要、万田では分が悪いと考えた皆切は、自ら新鳩宅へと赴いた。
現在の調査結果は梨の礫。詳しくなるのは家の間取りと家具の中身ばかり。もちろん、家庭教師の時間の他にも芙蓉のことは調べているが、それも含めて成果が出ていない。
そろそろ期日も近付いてきている。このままでは依頼未達成で終わってしまうので、皆切にも多少の焦りが出てきた。
むしろ、依頼主に担がれているだけで、実際は何もなかったという可能性すら疑ってしまうが、それを疑うには出費の面で理解しがたい。出費を掛けて尚、探偵に依頼することが理由だとしたら、皆切をここに拘束することが目的とも考えられるが、それほど人様に恨みを買うようなことを自分がしただろうか、と逡巡し、星の数ほど思い当たって考えるのを止めた。
皆切は顔を上げると、翠が戻ってくる前にクローゼットの扉を閉める。
まるでそれを合図としたかのようにガチャリとドアが開いた。
「戻りましたー」
語尾を伸ばし、無邪気さをアピールするような年相応な振る舞いで翠は入ってきた。
手にはアイスティーの入ったコップが一つっきり。
「なんか、お母さんが先生と話がしたいから呼んで来いって」
だから、皆切の分の飲み物は持って来ていないのだと理由を察する。
翠は、あーあ、また授業が進まないね、残念だね、と言わんばかりに当然のようにマンガを陳列する本棚に手を伸ばす。
その舐めた態度に少し意地悪をしてやろうと、
「わかった」
皆切は伸ばした手の甲を軽く叩くと、問題集の演習ページを開いて、翠に突き付ける。
「十分で戻ってくるから、それまでにこれを解いておけ」
ええー、という抗議の声を尻目に皆切は部屋を出て行った。
芙蓉の話というのはこれということもない、単純な進路相談みたいなものだった。
「大丈夫、翠はこのままなら順当に内部進学はできるだろう」
来週に迫る期末テストに対して、不安はないことを伝えながら、アイスコーヒーを啜り、先程までは冷蔵庫に存在しなかった、今スーパーで買ってきたばかりであろうプリンを食べる。
「ええ、私も大丈夫だろうと今まで思ってはいたんですが、お父さんが急に家庭教師を雇おうだなんて言い出したもんだから、逆に不安になっちゃって」
家庭教師を雇い出したのはお前を監視する為だとはとてもじゃないが言えない。
しかし、その行為自体が逆に芙蓉に不信感を抱かせるきっかけになっているという事実にも皆切は気付いた。もし、こっち側の意図にまで気づいているのであれば、彼女が一向に尻尾を出さないことも頷ける。
「もうちょっと真面目に勉強する気があるなら内部進学に限らず、もっと上の学校にだっていける。本人にその気が見られないから難しそうだが」
「そんなに集中していないですが?」
「ないね。まぁ目標もなく勉強しろといったところでやらないのは今も昔も同じだから俺からは何も」
「はぁ、まぁそういうものですよね」
心配はするが、本人にやる気を出させるとか教育ママ的な要素はないらしい。
その後も軽く雑談をしつつ、何か情報が降ってこないかと期待したが、何も尻尾は出さない。
皆切はふと彼女の腕時計を見る。左手の甲を向いた女性らしく線の細いアナログ時計の盤面は十七時三十五分を指していた。
翠と約束していた時間だ。
「では、授業に戻るので」
皆切は容器の底のカラメルをかき込むと席を立った。
部屋に戻ると彼女はマンガを読んでいた。
「おいおい、サボってやがったな」
「サボってないよ、ちゃんと言われたところは終わらせたから」
翠は得意げにノートを指差す。たしかに指定した問題は終わっていた。
十分という制限時間では解けるか解けないかギリギリの量だろうと思っていたが、見込み違いだったのかもしれない。若干、引っ掛かりながらも皆切は答え合わせをし始めた。
引っ掛かりといえば、これも宙に浮いていたままだった。
「そう言えば、さっきシャツって言っていたが、それはなんだったんだ?」
「ああ、そうそう。愛美莉のシャツね。愛美莉のシャツが今週になってから長袖になってたんだよ」
「……長袖?」
「そう。先週までは制服のシャツが半袖だったのに長袖になってたんだよ」
今はこれからどんどん暑くなる盛り、その時期に半袖から長袖に変わるというのは不自然だろう。
「学校にはどっちで通ってもいいんだろう? 翠は半袖で通ってるのか?」
皆切はクローゼットの中を思い出しつつ、わかり切った答えを待った。
「うん、私は半袖かな。でも夏の間も長袖の子も少なくないよ。三割くらいは長袖かも」
思い返せば、皆切の身の回りにも夏の間中、長袖で通していた友人が結構いた記憶がある。なんとなく、半袖がダサいという風潮があり、それに反発していた形だ。
女子生徒の場合だと、それだけの理由ではなく、中学生の時から日焼けを警戒し、肌の露出を控えようという美容意識の高い生徒もいるのかもしれない。
そもそも校則として定められていないのであれば、それは生徒個人の自由である。
「しかし、長袖の子はだいたい夏の間、ずっと長袖なんだろう? あるいは長袖から半袖に変わるのはわかるけど、その逆ってのはちょっと変だな」
「ね、これから暑くなる一方なのに」
半袖ではいけなく、長袖になる理由……。
皆切の脳裏に嫌な予感が走った。もっとも安易で、簡単に、残酷に思い当たる解だ。
しかし、それは否定する。
愛美莉の人となりは知らないとはいえ、流石に目に見える予兆があってしかるべきだが、翠の話しぶりからそういうものは見られなさそうだ。
そして、これを伝えることは翠を傷つけかねない。予感で話していいものではないし、できる限り、他の解答を用意してあげたい。それに不要な面倒事に首を突っ込みかねない。
「やっぱり、先生も気になる?」
「ああ、ちょっとな」
答え合わせの結果、翠は全問正解だった。
「よっし。じゃあ、今日はもう授業終わり。愛美莉の謎を解き明かすのを手伝ってよ」
「そういうわけにはいかないだろう。こっちは金もらってんだぜ」
普通の家庭教師よりもはるかに高価な金額を。
「いいじゃん、満点だったんだから。今日教えたことはちゃんと覚えてましたってことで」
本人が納得しているなら、そういうわけにいってもよいかもしれない、と開き直る。所詮、なんちゃって家庭教師だ。
「そうだな、じゃあ、とりあえず確認なんだが」
そう言って、皆切は本腰を入れ、手を挙げない謎と向かい合うことにした。
「整理すると、その愛美莉って子の変化は今週の月曜日から起こっている。
その変化というのは、手を挙げなくなったことと、長袖になったこと。これで合ってるか?」
「うん、そのはず」
翠は急に自信なさげな声で言う。
「そのはず、って歯切れが悪いな」
「そう言われても、さっきも言ったけど私と愛美莉はそこまで仲良しってわけじゃないし、もし、先週の六時限目から手を挙げなくなりました、なんてなっていても証明できないでしょ? だから言葉は濁しておくの」
「お前、妙なところで律儀だな」
しかし、その考え方は人に付け込まれる隙を塞ぐ為に真っ当で、中学生にしてはいい感覚を持っていると感心する。
「まぁいいや、この変化は少なくとも学校においては、月曜になってから起こっていると仮定する。ついでに問題をシンプルにする為に、手を挙げなくなったことと長袖になったことは同時に発生していることにしよう」
「え、じゃあ、もしそれが同じじゃなかったらどうするの?」
「どうもこうもない、これからの話はすべてご破算だ。俺達が彼女のすべてを知り得ない以上、仕方がないだろう」
「いいの、それで?」
「いいさ、世の中ってそんなもんだぜ」
ちょっとだけ教師っぽいことを言う皆切。
「とりあえず、その仮定で考えた場合、常識的に考えると週末、あるいは先週の金曜に原因がありそうだが、そこに何か特徴的なイベントがあったかどうか?」
「イベント? うーん、愛美莉に起きていそうなイベントねぇ。
私の知り得る範囲では金曜の教室にいる間は何もなかったとは思うな。
放課後となると部活中は、何していたのか、ってそうかテスト期間だから部活はなかったっけ、そうしたら学校にいる間は特に何もなかったってことで」
「一応、学校に関してもう少し教えてくれ。金曜に限らず先週中は何か学校行事とかはなかったのか」
「ないよ、さっき言ったじゃんテスト週間だって。テスト直前に遠足や運動会なんてやるわけないでしょ」
道理だった。
「きっかけとなりそうなことは学校内では見当たらないとなると、学外、特に週末か」
「うーん、学外ならもしかしたらアレかも」
「アレ?」
皆切は身を乗り出す。
「うん、そう。近所で夏祭りがあったんだよ。小さいやつだけど」
「夏祭りか、翠は行ったのか?」
そんなものの存在は皆切の耳には入っていなかった。新鳩宅は皆切の事務所および居住区とは若干距離の隔たりがある為、入らなかったのだろう。つまりはその程度の小さい祭りだということである。
「行ってないよ、テスト前だし。学校でも、最近は物騒だから親同伴で行きなさいなんて言っちゃってさ、中学生にもなって親と一緒に祭りに行くやつなんてどこにいるの?」
そこまでいうほどだろうとか、と皆切は思ったが、しかし自分だったらしなかっただろうな、と思う。男子中学生なんて親と一緒にいるところを友人に見られたときには死を意味するだろう。だが、その一方で今、その頃に戻って親と一緒に祭りに行けるものなら行きたいとも夢想する。叶わぬ夢だとしても。
それよりも気になることがあった。
「物騒って何かあったのか?」
これは女子中学生特有の慣用句的な物騒なのか、あるいは社会的事件が起こったが故の物騒という表現なのか。
「このへんで最近、変な会合が開かれるんだって。夜に集まってさ」
「会合? 近所のチンピラでも集まってるのか?」
「さぁ、詳しくはわかんないけど若い人だけが集まってるわけではないみたい。学校の噂だとクスリをやってるだとか、宗教だとか色々言われてるよ」
「そんなのがなんで放置されているんだ? いや、でもクスリや違法行為ならともかく、宗教絡みだと警察も口出しできないのか」
「どこでやるかもいつやってるのかもバラバラだって話で警察も困ってるみたい。実際に友だちで塾の帰りに目撃しちゃった子がいてさ、家からそう遠くない公園で九時くらいって言ってたかな。心配した父親が塾の送り迎えは付き添うようになったんだけど、以後、同じ時間にも同じ曜日にもその公園では見かけなかったって」
「でも、別のところでは目撃の噂があるってことか」
「中には警察に引っ張られた人もいるらしいけど、スマホとかそういうの見ても連絡の痕跡がなかったんだって。だから偶然集まっただけですって言い張ったって、そんなのズルいよねぇ」
「だから、夏祭りに行かなかった、と」
「まぁ、それも理由の一つってところだね。お母さんも絶対に行くなって言うし、しょぼい祭りだから、行くなって言われて行くほどのもんでもないし、誰かに誘われたらこっそり抜け出すかもしれないけど、一人で行くには魅力が足りないと言いますか」
「じゃあ、学校のみんなもその夏祭りには行ってないのか」
「中学生がやるなといわれて素直に我慢するわけないでしょ、聞いた限りでも数人は行ってたよ。みんなカップルで行ってたけど。ああ、やだやだ」
皆切は妙に納得した。そして、翠には現在彼氏に当たる人物がいないことも確信した。これは先の調査で推測はしていた事実だったが。
「でも、曲がりなりにもお嬢様学校なんだろう?そういうの厳しいんじゃないのか?」
「お嬢様学校だったのなんて昔の話でしょ? 今は普通の学校。
もう、女子校でもないし、少ないとはいえ、クラスに十人は男子もいるんだよ。先生はちょっと厳しめだけど。
第一、私がお嬢様に見える?」
「少なくとも、お前んちが俺に金を支払っている限りはお嬢様扱いしてあげるけどな」
「ありがとう、先生のそういうちょっとくさいところ好きだよ」
昔の威光をありがたがっているのは、年齢が上の人間だけで、現実のお嬢様学校は既に凋落していることが窺え、翠はそれを体現していた。
それならば、無理してこの家も翠をこの学校にやる必要もない気がするが、こういうのは自分がその時分に感じたコンプレックスを親が押し付けてしまうものだから、しょうがないのかもしれない。
母親の時代には実際にお嬢様学校だったのだから、入ることすら許されなかった場所への憧れを押し付けたのか、あるいは父親か。
「で、肝心の愛美莉はどうだったんだ? 優等生というくらいだから、あまり夜出歩くようなイメージはないが」
「それは偏見だよ、先生」
偏見だと言われても、愛美莉のことなど何も知らないのだから、どうしようもない。
「じゃあ、行く可能性あったんだな」
「聞くところによると、愛美莉の家はかなり放任主義でやることをやってさえいればとやかく言ってこないらしい。
それでいて、学校では成績優秀で学級委員なわけでしょ?そりゃ、親からしたら注意のしようがないわけ。私と違って」
どうやら自分の素行に対しては思うところがあるらしい。
「それに優等生って言ったって、それはやっぱり先生の前だけ、本当に二十四時間年中無休で真面目真面目していたら嫌味なところが目に付くはずだけど、そうじゃないから誰からも愛されてるわけよ。
ああ見えてバランスがいいんだよ」
だから、どう見えてなのかは皆切にはわからない。
「それに、愛美莉はテスト前にバタバタと勉強しないんだってさ。普段からちゃんと勉強してるから、テスト前になって慌てることはないんだと。
いいなぁ、そんなこと一度でいいから言ってみたい」
「言えばいいじゃないか。普段から勉強してみたらどうだ?」
「そんなことできるわけないじゃん、どうせ先生もそうだったんでしょ?」
皆切は、ははっと笑って誤魔化した。
「じゃあ、その夏祭りってやつに愛美莉って子が行ったとしよう。そして、それは多分、一人ではなかった」
「え、なんで一人じゃなかったなんてわかるの?」
「お前が言ったんだろ、一人でいくようなもんじゃないって」
「あ、そうか。でも、それはあくまで私はって意味で……、でも愛美莉も行くとしたら一人では行かないか、そうかも」
「それに一人じゃない方が都合がいいんだ。ちなみに、彼女はモテるのか」
「え、何、急に。先生、愛美莉に気があるの? えー、ちょっとショックかも」
皆切もそろそろ、この年頃の女子が自分と他人の認知の境界が曖昧であることに慣れてきたので動揺もしない。
「ショックなところ悪いが俺は愛美莉の顔を見たこともないし、会ったこともない」
「じゃあ、紹介しろってこと?」
「ここまで話しておいてまったく興味がないと言ったらそりゃ嘘になるが、そんなことはどうでもいい。どうせモテるんだろ? 話を聞く限り」
「わかってるよ、冗談に決まってんじゃん。
モテるよ、モテますよ、先生の思った通り。私も分けてほしいくらい。でも今、彼氏がいるかは知らないなぁ」
「じゃあ、一緒に行く相手が男子生徒であってもおかしくないわけだ」
「それはモテなくたってあるでしょ」
「そりゃそうか」
「そうだよ、それは行き過ぎたルッキズムってヤツだよ」
「お前、妙な言葉を知ってるな」
「別にモテようがモテまいが、そういう可能性があったっていいじゃん。あーあ、私も一緒に行ってくれる彼氏がいれば、家を抜け出して夏祭りに行っていたかも。ああ、どうして私はモテないの」
「随分と器の小さなモンタギューだな」
「それはわからないけど、そうだ、次の夏祭りは先生が一緒に来てよ。夏休み入ったら大きな夏祭りがあるんだ」
「嫌だ」
「えー、ツレないなぁ、いいじゃん、先生だったら大人だし、保護者ということで」
「なんで、俺が貴重な時間をお前の為に使わなきゃいけないんだ」
「えー、ケチ」
話が本線から逸れてきた。中学生の集中力のなさときたら、とうんざりしつつ皆切は強引に話を戻す。
「それより、愛美莉だろ。彼女が一緒にいった相手は彼氏ではないんじゃないか?」
「え、彼氏じゃないって、なんでそんなことわかるの?」
翠は首を傾げる。
「正確には、彼氏にはまだなっていない。いや、もしかするとそろそろなっている頃合いかもなぁ」
「どうしたの、急に」
翠の言葉に、これ見よがしな溜息を吐く。
「お前、何の為にこの話をしていたか、覚えているか?」
「私が勉強をサボる為でしょ」
まるで、筆者の気持ちを答えよ、という問いに対し、めんどくさい、と答えるが如しだ。国語のテストであれば、当然バツ。
「愛美莉が手を挙げなくなった理由だろう」
「そういえば、そうだった」
「そして、結論を言うと、それは手首を見せない為だ」
「手首?」
翠はペンを持っていない左の手首に目をやる。
「そう、彼女は週を明けたら長袖になっていたんだろう?
だったら、そのときから手首が見せられない何らかの事情があったんだ」
「それだったら、見せられないのは二の腕とか肘とかかもしれないじゃん」
「それが手首しかありえないんだ。だって手を挙げられないんだから」
それがなんで、と訝し気な顔をしながら、自分の左腕をゆっくりと挙げて初めて気付く。
「そっか、長袖でも手を挙げると手首が出ちゃうんだ」
「だから、彼女は手首に何かを隠していた。それは間違いない」
実のところ、皆切は早々にこの結論に至っていた。
手を挙げない、かつ、長袖とくれば、気付かない方がおかしい。
問題はその理由だ。
なぜ、手首を隠さなくてはいけなくなったのか、皆切はそれを女子中学生の思考をトレースするように、妄想した。
「あ、わかった。左手首を怪我したとか」
「それはないだろう」
皆切は翠の意見を優しく否定する。そう、優しく。
「怪我をしたからといって、隠す必要があるか?」
「でも、包帯とか見せたくないかもしれないし、手も挙げにくいかもしれないじゃん」
「ああ、まったくその通りだ。わざわざ見せるもんでもないし、傷に触るから長袖を着たのかもしれない。手を挙げるのも億劫だったのかもしれない。
でも、それを周りに黙っておく理由もないだろう」
これは必然性の否定だった。
「そうか、言われてみれば。
別に隠す必要はないか、私だったらみんなに怪我しちゃったって言い触らすし」
「それにお前の耳には少なくとも、怪我しただなんて話は聞こえてこないんだろう?
痛みがあるなら、日常生活にも支障が出ているはずだけど、その兆候も見えない」
翠が何も気付かないほど、鈍感だという可能性はこの際排除する。気付く程度に聡いと信じて持論を進める。
「これはあくまで可能性の提示だが、彼女はきっとブレスレット的な何かを左手首に付けていたんだろう。左手だろう? 彼女が手を挙げる時はいつでも」
「そうだけど、そんなこと話したっけ?」
「いいや、ただの一般論だ。授業中、利き手にはペンを持っているんだから、手をしょっちゅう挙げるなら猶更、普通は反対の手を挙げる。わざわざ書く手を止めていたら面倒臭いからな。
だから、右利きなら左手だ。現にお前だって左手を挙げるはずだ」
彼女はさっき、挙げた手が左なことに初めて気付いたかのような驚嘆の表情を浮かべた。
「で、時計とかアクセサリーみたいな邪魔なものを付けるのは利き手の逆だ。中学生の財力を考えるとミサンガとかも考えたが、縁結びは右手だったか、あれは。というかそもそも今どきの中学生もミサンガなんてつけるのか?」
翠はこっくり頷いた。
「まぁ、とにかく、ブレスレット的な何かを左手首に付けて隠していたとしよう。じゃあ、それを誰に隠していたかだ」
「先生……じゃないの?」
「先生からは隠したかっただろうけど、それだったら、周りの友人は知っていていいだろう。お前のところにまで届かなかった可能性は今は、一旦除外して、周りすべてから隠していたとしたら、それはなぜなのか」
皆切は一呼吸置く。
「答えは照れ、かな」
「照れ?」
意味の分からない答えに動揺する翠。
「そうだよ、照れだよ。
中学生の悩みなんて色恋沙汰しかないだろう」
「偏見だ」
その通り、完全に偏見である。しかし、皆切は自身の偏見を元に、女子中学生の思考をトレースしたので、これは仕方がないことだった。性の差もある上で、さらに自身の中学時代の心の中など参考にならないことを知っていたから、数多の創作物が見せた虚構に間借りするしかなかったのだ。
「つまり、こういうことだ。
愛美莉は夏祭りに恋人未満の男子と一緒に行った。そして、その男子は愛美莉に付き合ってほしいと告白をする、と同時にブレスレットをプレゼントする。
返事がオーケーなら代わりに今度、そのブレスレットを付けてきてほしい、と言ったわけだ」
皆切は自分の発想ながら甘々な展開に呆れる。
「もちろん、オーケーのつもりだった愛美莉だが、いざそれを見せるとなると中々決心がつかず、学校に付けてきたはいいものの、未だ隠し続けている、とまぁ、俺の妄想はこんなところだ。ちょっとロマンチストが過ぎるか?」
こんな愚にもつかない回答に幻滅するかと思いながら顔を上げると、翠は目をキラキラさせながらこっちを見ていた。
「へぇー、なるほど、そんな事情が、へぇー」
なるほど、少なくとも彼女にとっては皆切の作った虚構は当たらずとも遠からず、ありえるレベルの話だったらしい部分点くらいはもらえる出来だ
しかし、これはあくまで可能性であり、しかも、皆切が彼女を傷つけない為に用意した極めてポジティブな可能性であった。
なぜなら、自身が初めに抱いた可能性はネガティブなものだったからだ。
翠が怪我したと言った時、それを否定した。
でも怪我を隠したい状況が皆切の脳裏にははっきりと想像できていた。
自傷の跡を隠したい、それが手首を隠したい理由じゃないのか?
真っ先に思い浮かんだのはそれだった。
躊躇い傷を包帯で隠し、長袖で覆い、決して見せない。
皆切は愛美莉の人となりを知らない。だからこそ、女子中学生という漠然とした概念に愛美莉を押し込め、不安定な年頃だから、いつ誰がそれをしてもおかしくないと思ってしまう。ただ、それは翠の口から話される愛美莉という人物の像からかけ離れていると感じたし、そんな風に思ってほしいとも感じなかった。
だから、その可能性を口に出さず、ポジティブな理由で手首を隠すわけを模索した。
その結論が恋愛脳で、手首のラブサインだというのであれば、まぁ及第点かな、と皆切には思えた。
「そっかぁ、明日、愛美莉にこっそり聞いてみちゃおうかな。先生すごいね。私、全然そんな風には考えなかったよ」
「まぁそれが、」
仕事だからな、と言いかけて口を噤む。
「って、もう、時間じゃん。はい、終わり。今日の授業終わり。終了」
「えっ」
皆切は驚いて、壁に掛けられた時計を見る。
時刻は六時ちょうど。
喋るのに夢中になって、そんなに時間が経っていたかと反省する。いや、体感的にはそんなに経っていないような。
はて?
皆切はおかしなことに気付いた。
「どうしたの、先生。いつもなら授業終わったらすぐ帰るのに」
「翠、俺がこの部屋に戻ってきたとき、時計は何時だった?」
「五時四十分くらいだったかな、戻ってくるの遅いなって思ったもん」
「ここの掛け時計の時刻は正確か?」
「正確だよ、ほら」
翠は自身のスマホの待機画面を見せた。
デジタル表示の末尾が0から1に変わる時、同時に掛け時計の秒針も頂点に達する。
「そうか、だから」
だから、翠は指示した問題集の問題をすべて解けていたのか。
皆切は納得する。道理でマンガなんぞを読む余裕があった筈だ。皆切が指示した時間は二十五分から三十五分までの十分間。しかし、実際には四十分までの十五分間あったのだから、それだけ猶予が生まれる。
このズレはどうして発生したのか。皆切はどこで時刻を確認したのか。
芙蓉、翠の母親の腕時計だ。彼女の時計が五分程遅かったのだ。
しかし、こうなると疑いは連鎖する。そもそも、芙蓉のあの腕時計に違和感がある。
あの時計は手の甲側に文字盤が向いていた。
女性は一般的に手のひら側に文字盤を向けて腕時計を着けることが多い。女性だって中には手の甲に向ける人もいるだろうが、それはたまたま芙蓉がそういう人間だったというだけで片付けていい問題なのだろうか。
もし、それがたまたまではなく必然だとしたら。
時計の違和感はまだまだ続く。
芙蓉はなぜ、腕時計を着けていたのだろうか。たかがスーパーに行く為だけに。
近所のスーパーに行く為だけにわざわざ時計をするのだろうか。しないとは言い切れない。または今日、他に外に出る予定があって、そのまま時計をしていたのかもしれない。あるいは自宅でも腕時計をするタイプだったのかもしれない。
しかし、スーパーに行くというのも変だったはずだ。
なぜ、毎度家庭教師に来ていて、娘と二人きりで家に残すというリスクを背負いながら、スーパーに行く必要があったのか。
これまでは勝手にただの不用心だと断じていたが、もし、仮に、これにも意味があるとしたら?
皆切が両手を重ねて顔に押し当て、ブツブツ言う様は翠の目には奇異に映っただろう。
それは皆切が家庭教師として彼女に見せたことのない姿で、まるで人が変わったように映ったはずだ。
「そうか、合図か」
愛美莉のブレスレットがラブサインであるのと同様に芙蓉の腕時計もなんらかのサインだったのではないだろうか。
芙蓉は誰かにメッセージを伝える為に、毎日決まった時刻に、腕時計を見せびらかしに外へ出ていたのだろう。
時計が手の甲に向いていたのも納得できる。手のひら側では他人が覗き込むことはできない。
じゃあ、誰に見せていた。相手は誰だ。なぜ、決まった時間が必要になる。
目的地がスーパーなのであれば、パートタイマーの勤務時間に合わせた行動に見える。レジでの会計時に腕時計を見せるのは違和感ない。
さらに、芙蓉の財布には現金が増えているという話。レジで現金のやり取りをしていたとしたら、千円出して一万円帰って来ていたとしても傍からは誰も気付かないだろう。お金を見せてやり取りしても一切咎められない空間だ。
じゃあ、お金のやり取りはここでしていたとしよう。
そこまで手間暇かけて、伝えるメッセージが時計が五分遅れていることだけだとしたら割に合わなくはないだろうか。
それこそ、紙幣のやり取りに紛れて、メモの受け渡しでもした方がいい。
スーパーのレジ打ち一人にメッセージを伝える手段として時計は余りにも貧弱で現実的ではない。
だが、対象が特定個人ではないならどうだろうか。
芙蓉をスーパーの行き帰りで見かけた人物すべてに五分遅れという情報を得る機会があると考えれば、効率は悪くない。群衆、この街のすべての人間に情報を見せつける、歩く掲示板のようなものだ。
何の為に?
―――このへんで最近、変な会合が開かれるんだって。
どこでやるのかも、いつやるのかもわからない
神出鬼没の会合。連絡手段の不明な会合。
その連絡手段こそが芙蓉だったのか。
芙蓉が一回スーパーを往復することで伝えられる情報は数分遅れか、数分早いか、という僅かな情報だ。
しかし、会合はきっと毎日催されているわけではない。二日掛ければ、その二倍の情報を伝えることができるし、三日掛ければ三倍だ。場所と時刻を伝えるだけなら十分だろう。
新鳩芙蓉は会合の開催を伝えるメッセンジャーだったのだ。そして、彼女本人は会合に参加していない可能性が高い。参加しないことで秘匿性は担保される。
あくまで勝手に日時場所を考えて、時計をズラして歩き回るだけの役目。そして、対価として金銭を受け取っていた。
この街の住民が夕方散歩することには何も問題はない。
時計が五分や十分ズレていることが咎められることもない。
こうやって足が付くことなく、会合を繰り返して……。
「先生、」
翠が心配そうに声を掛けてきて、皆切は我に返った。
「どうしたんですか、先生。具合でも悪いんですか」
「翠、すまないが、今日で先生はお終いだ」
皆切は立ち上がって身なりを整える。
「またいつか会おう。じゃあな」
ポカーンとする翠を置き去りにし、新鳩家を出る。玄関先へ見送りに出る芙蓉の左腕にはもう腕時計はない。
まだ明るい外の景色と周囲を歩く住民達を眺めた後、皆切は歩きながら依頼主へと電話を掛けた。
Breath Let

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