さて、始まりました今日のガラピコぷ~のコーナー。
え?そんなコーナー今まであったかって?勘がいいですねぇ、ないぞ。
このコーナーは今日で始まり、きっと今日で終わる一夜だけのコーナーだ。全速力で駆け抜けろ。
と前置きはさておき、皆さん今日もガラピコぷ~を見たでしょうか?
そう、あのOPアニメがパステル調で可愛く、本編が始まると全く違う顔のチョロミーが現れて、初期の頃は全世界の子ども達が号泣したあのガラピコぷ~のことだ。
もしかして、万が一、砂漠で一粒の胡椒を見つけるほどの確率で今日のガラピコぷ~を見ていない方がいるかもしれない可能性が微粒子レベルで存在している為、簡単にどういった話だったかをお話しさせて頂こう。
今日のガラピコぷ~はガラピコが大切に育てていた3匹のオタマジャクシがとうとうカエルになって川に逃がしてあげようという話だ。
このオタマジャクシは今年になって度々登場しており、オタマジャクシの頃から、脚がはえた回など、基本的に一話完結のガラピコぷ~の中では珍しく、壮大なシリーズとなっている。
さて、話が変わるが、皆さんは「情けは人の為ならず」という言葉をご存じだろうか?ご存じないヤツは流石に小学校からやり直せ。
この言葉は皆さんご存じの通り、「人に情けをかけたら巡り巡っていつか自分に返ってきますよ」ということわざだ。
このことわざをテーマにした話というのは子ども向け番組には度々登場する。おそらく、一年に一度は登場する。
きっと、話の構造として、良いことをする→困ったことが発生する→なんやかんやある→自分に良いことがある、ということわざ内で起承転結が組み立てられるし、教養的にも良い題材として捕えられており、積極的に話にするのだろう。
私はこの「情けは人の為ならず」をモチーフにした話がとても嫌いだ。
なんて、都合の良い話だろう。巡り巡って自分に良いことがある?ふざけるんじゃない。バカげてる。
大体、現実世界を見てみろ、良いことしたってなんか見返りが返ってきた試しがあるか?いや、ない。良いことしたからってほとんどの場合は、それで終わり、何か続きがあるわけではない。
逆に自分に良いことがあったとしても、そこに自分の行った善行との因果関係はない。
ふざけるな。
見返りなんてなくっても良いことってのはするべきなんだよ。
勘違いさせるような発言をしてしまったが、私は決して良いことをすることを否定しているわけではないのだ。
ただ、良いことをしたからといって、良いことが返ってくるという思想が甚だ気に食わないのだ。
子どもにそんな「情けは人の為ならず」精神なんて教えてしまったら、これからの人生、情けをかけたにも関わらず、一向に見返りのない現実に裏切られ続けて、やがて善行をしなくなってしまうだろう。
良いことをした分だけ良いことが返ってくる。
この考え方が間違っているのだと私は強く主張したいのだ。
つまり、良いことをするという行為はそれだけで良いことなのだから、それがたとえ、いくら叩いても返事のないドアを叩き続けるような虚しい行為だとしても、それ自体がとても尊いものなのだ、と私は子どもに教えたいのだ。
子どもいないし、予定もないけど。
大体が、世の中、フィフティフィフティで丸く収まるという勘違いがまかり通りすぎている。
努力は努力した分だけ返ってくるだとか、プレゼントをしたらお返しがあるだとか、バレンタインのあとにはホワイトデーがあるだとか、その度に、ボクらは裏切られてきたじゃないか。
だから、裏切られたとしてもその行為はとても尊いものだからやれ。
君の善行は君のエゴであり、行為を起こした時点で完結しろ。そこで君の物語は終了だ。良い話だったじゃないか。
そういうスピリットで生きていきたいのだ。
ここで話が戻ってくるが、3匹のカエルに
「川に帰りたいか否か」
を、しずくハーモニーで話を聞いてみることにする。
すると、川云々どころの騒ぎではない。あれだけ大切に育てたつもりのカエル達はガラピコのことを全く覚えていないのだ。
自分達が勝手に生まれて勝手に育っただけで、そこにガラピコの力が介在していたことすら認識していない、あるいは忘却しているだ。
その事実にショックを受けるガラピコ。
そりゃそうである。きっとガラピコの主観では、カエル達はさぞ自分の感謝し、ありがとうの連呼とともにずっとガラピコと一緒にいたい、川になんて帰りたくない、といわれるに決まっていると思っていたのだから。
情けは返ってくる。
この思想が見事に打ち砕かれた瞬間だった。
先程、私が主張した通り、情けは人の為にならず的ストーリーラインは単純かつ明快なのだが、今日の話については流石にこんな残酷な話があっても良いのだろうかと驚愕した。
しかも、このオタマジャクシとの友好というのは数話にも渡って念入りに仕組まれていたのである。
これではガラピコがあんまりだ。
しかし、もうカエルになって食べることがなくなったパンくずの紙袋を寂し気にカサカサ音立てると、カエル達は笑い声を立てるのだ。
ガラピコに育てられたことは全く覚えてなかったのだが、カエル達の中には確かにガラピコの残骸が残っているという証左である。
ここにガラピコのエゴが完成した。
別に、ガラピコも本来の意味でカエルに感謝されたいからオタマジャクシを育てていたわけではない。それに気付き、この紙袋の音を覚えていてくれるだけで十分、自分は幸せだと自己完結できることがガラピコにとっての成長なのだ。
昨今は情けは人の為ならずではないが、自分が何かをしたら反応があるのが、当然だと思っている輩が多すぎると、私は感じる。
そうではないのだ。自分が何かをした時点で感情は完結しているのだ。その後の展開というのは当然、相手の厚意によるものであり、なかったとしてもそれを決して責めてはいけないのだ。
おう、欲しいものリスト、てめぇのことだよ、ボクに対して送ってくれるのは構わないし、ボクはサービスでそれには応えるけど、それが当然だと思うなよ、何も反応しないのが、普通なんだから、贈ることが自分のエゴだと理解しておいてくれ。時には好意から来たものだとしても贈り物が迷惑だってこともあるんだぞ。悪意から来たものは当然迷惑だけど。
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